ことばに悩んだ日々
ことばは、私にとって長い間、悩みの種でした。
物心ついた頃から吃音がありました。自分の名前を言おうとするたびに、ことばが出てこない。友達に笑われたこともありました。
生まれは厚木市上依知ですが、小学校に上がる前に座間市に引っ越してきました。旭小学校・東中学校・座間高校と、この地で育ちました。吃音を抱えながらも、地域の人たちに支えられながら過ごした日々は、今も私の根っこにあります。
「働ける」という実感
高校を卒業してからすぐに専門職の道を歩んだわけではありません。いくつものアルバイトを経験しました。
はじめは、しゃべらなくてもできる仕事を選んでいました。工場のライン、倉庫でのピッキング——吃音があるから、人と話す仕事は自分には無理だと、どこかで決めつけていたのです。
そんな私を変えたのは、高校時代の友人のひと言でした。「できないなんて、やってないのにわからないじゃん」。その言葉に背中を押されて、接客の仕事に踏み出すことを決めました。
けれど、道のりは平坦ではありませんでした。そもそも応募の電話をかけることができず、何件も問い合わせの段階でダメになりました。なんとか面接までたどり着いても、何度も落とされました。悔しさばかりが募る日々でした。
だからこそ、採用してくれた場所では、感謝の気持ちを込めて120%の力で働きました。座間のダイクマの中にあった本屋「ブックスゴロー」、そして南林間のサンクス。電話に出ることだけは免除してもらっていました。時々出ると、ひどくどもって大変なことになるからです。それでも、笑顔や気配り、動きの速さ——ことば以外の部分で、いくらでもカバーできる。そう気づいてからは少しずつ仕事を認めてもらえるようになり、サンクスではオーナーから「店長にならないか」と誘われるまでになりました。苦手なことがあっても働ける。その確かな実感を、このとき初めて得たのです。
やがて、初めての正社員として、仕出し給食の会社に勤めました。調理見習いから始め、厳しい厨房で先輩に鍛えてもらいました。朝は2時前に出勤し、夜は18時過ぎまで。休みの日も包丁を握り、一日でも早く一人前になろうと、余力を残さず全力で毎日を過ごしました。ハードな日々でしたが、仕事の厳しさと社会人としての基本を、この現場で一から叩き込んでもらいました。毎日、誰かのもとへ食事を届ける——食べることの大切さ、人の暮らしを支えるということも、ここで教わったことです。
言語聴覚士への道
ただ、吃音への思いはずっと消えませんでした。治したいと思い続けていたあの頃、助けてくれる専門家はどこにもいませんでした。ならば自分がなろう。仕出し給食の会社を辞め、コンビニで週40時間働きながら夜間の養成校に通い、言語聴覚士の資格を取りました。
資格取得後、私は自分自身の吃音と向き合い続けました。評価し、トレーニングメニューを考え、実行する。電話が使えない、レストランで注文できないなど、大人になってからも日常生活に支障をきたしていた吃音は、継続的なトレーニングと実践を積み重ねた結果、今では生活上の制限はなくなりました。大学や専門学校で講義をし、ラジオ番組にも出演するようになりました。正しい方法で続けることで、ことばは変わる。それを自分自身で体験しています。
言語聴覚士として最初に勤めた病院の上司から「吃音に特化する前に、まず一通りのことができるようになりなさい」と言われ、新卒から埼玉県所沢市の回復期病院で7年間、成人領域の言語療法に携わりました。
その中で、二つのことを深く感じました。ひとつは、本人の意欲と適切な環境があれば、ことばは確かに回復するという手応え。もうひとつは、回復を望む失語症の方が、退院後にリハビリを続けられる場所がないという現実への悔しさです。いつか自分で、そういう場所をつくろう——そう考えるようになったのは、この頃です。
グリーン・グリーンの開設へ
35歳で地元にUターンしてからは、訪問看護やケアミックス病院での部門立ち上げ、座間市・相模原市での介護予防教室やまちの保健室といった地域活動、そして相模女子大学大学院 社会起業研究科での学びを経て、準備が整いました。令和6年12月に起業し、翌年4月にグリーン・グリーンを開設しました。
回復を諦めないこと。そして、言語聴覚士との個別リハビリだけでなく、同じ悩みを持つ仲間との関係やコミュニケーションが、心を癒し、回復の土台になること。この信念のもと、日々の支援を続けています。
ことばのことで悩んでいる方、退院後のリハビリに行き場のなさを感じている方。どうか諦めずに、一度私たちにご相談ください。あなたの「伝えたい」「つながりたい」という想いに、私たちは全力で寄り添います。